こちらの記事では、日本の資本主義の特色について解説していきます。

日本経済は現在、資本主義というしくみで動いています。

日本は、約150年前に資本主義を導入したことで急速な経済成長をしつづけ、21世紀初頭まで、アジア唯一の先進国として経済・産業面で世界をリードするまでに発展しました。

日本に住む私たちとしては、なんとも誇らしいことですね。

ところで日本経済は、他の資本主義先進国である欧米とはちがうしくみで発展をしてきたという事実をご存じでしょうか?

ただ欧米のマネだけで発展したわけではない、日本独自の資本主義システムが、国内の経済発展にどのような影響をあたえたのかは、意外と知られていません。

そこでこの記事では、

「日本の資本主義がどのように発展したのかを知りたい」
「他国にはない日本の資本主義の特徴を知りたい」

このような思いをもっているあなたに向けて、以下の内容を紹介していきます。

  • そもそも資本主義とはどんなしくみ?
  • 日本の資本主義が発展した歴史

この記事は8分くらいでカンタンに読めて、日本の資本主義の特色について十分に理解できます。

ぜひご一読ください!

INDEX
  1. 日本に導入された資本主義とは?
  2. 日本の資本主義が発展した歴史
    1. 明治時代に欧米の資本主義システムを導入した
    2. 日露戦争後は先進国水準の資本主義国になった
    3. 太平洋戦争後はアメリカの影響下で世界トップクラスの経済大国になった
  3. まとめ

日本に導入された資本主義とは?

資本主義経済でおなじみの投資チャート

ここからは、現在まで日本経済を動かしている「資本主義」とは、どのようなしくみなのかを紹介してきます。

資本主義は以下のような特徴をもつしくみです。

  • 資本家と労働者という2つの階級が存在する
  • 市場原理によってモノの価値が決まる
  • 企業間の自由な競争がおこなわれている

それぞれをカンタンに説明していきますね。

まず、資本主義によって経済を動かしている社会では、人々は「資本家」と「労働者」という2つの階級のどちらかに属しています

資本家とは、企業の事業運営に必要な資金を提供して、生み出された利益の一部を受け取り、資産を増やしている人たちのことです。

資本家が利益を生み出すしくみは、以下のようになります。

  1. 資本家が資金を提供することで、企業が事業をおこなえる
  2. 企業が事業で出した収益の一部を資本家に分配する
  3. 上記1,2を繰り返す

この順番で、資本家は得た利益を別事業に投資して、さらに新しい利益を得つづけます。

資本家はおもに、企業が発行する株式や債券を購入して、事業資金の援助をします。

資本家に対して労働者とは、自分の労働力を会社に提供して給料を得て生活している人たちのことです。

労働者は毎月はたらいた分の月給を、企業からもらいます。

資本家と労働者が暮らす資本主義社会は、市場経済というしくみを導入しています。

市場経済には、取引をするときに、商品の価格、消費者の需要と生産者の供給を調整する機能があります

市場経済のおかげで、企業など製品・サービスの売り手は、利益を出すための経済活動を自由におこなえるのです。

また、市場があるおかげで、資本主義社会にくらす人々は安くて高品質な商品が買えます

なぜならば、市場でよりおおく自分たちの商品を売るためには、ライバル企業よりもよい品質のモノ・サービスを生み出さなければならないからです。

たとえば、日本企業が製造した自動車は、他国企業がつくったものよりも性能がよく、さらに壊れにくいため、世界トップクラスのシェアをほこっています。

日本のメーカーが、他国企業よりもすぐれた性能の自動車をつくる努力をしたために、私たちは、高品質な日本車を購入できるのです。

この「よりよいモノを売って利益をだそう」という意識を持った企業間の競争がおこなわれるために、資本主義の国の製品・サービスは便利で高品質なのです。

ここまで、日本に導入されている資本主義とは、どのようなしくみなのかを紹介しました。

次からは、日本に資本主義が取り入れられてから、現代までの歴史を紹介していきます。

日本の資本主義が発展した歴史

明治時代に創設された日本銀行は国内経済の発展を牽引した

ここからは、日本が資本主義を取り入れてから、現代までの歴史を紹介していきます。

紹介していく順番は、以下のとおりです。

  • 明治時代に欧米の資本主義システムを導入した
  • 日露戦争後は先進国水準の資本主義国になった
  • 太平洋戦争後はアメリカの影響下で世界トップクラスの経済大国になった

それでは、順番に紹介していきますね。

明治時代に欧米の資本主義システムを導入した

日本の製糸産業をリードした富岡製糸場

日本は、江戸時代末期に高度に発展していた欧米諸国の侵略から自分たちをまもるために、彼らの持つ科学技術・社会制度を取り入れることにしました。

当時の欧米諸国が経済発展をさせるために導入していた経済システムこそが、資本主義だったのです。

日本は、明治時代(1868年~1912年)になり、本格的に欧米の資本主義システムを導入しました。

明治時代には、資本主義システムの成熟に欠かせない証券市場を開設します。

ここで、明治期の証券市場の歴史をカンタンに紹介していきますね。

明治初期には、横浜で為替取引をしていた両替商が、東京へ進出して公債の売買をはじめました。

この両替商が、日本初の証券業者でした。

やがて公債売買が活発化すると、仲買人どうしで公債の在庫量を調整したいというニーズが生まれ、取引所設立を目指すようになります。

そして、日本初の取引所設立が、横浜から東京に進出した両替商の今村清之助と渋沢栄一が中心になって進められることになりました。

1878年に、ついに日本で最初の株式市場である、東京株式取引所(現在の東京証券取引所の前身)が設立されます。

公債取引所としてスタートした東京証券取引所では、同年、兜町米商会所、蠣殻町米商会所、東京株式取引所、国立第一銀行の4銘柄が上場しました。

1892年までに14社の鉄道会社の株式が東京株式取引所に上場する人気銘柄となり、取引所での売買の中心になりました。

証券取引所の功績は、市場からひろく初期資金を集めたことで、日本の各産業が発展しやすくなったことでした。

明治時代を通して、日本社会の産業発展には、証券取引所が貢献しつづけました。

では、次からは産業が具体的にどう発展したのかを見ていきましょう。

江戸時代までの日本では、製品を木製の小さな道具や手作業でつくっていました。

しかし明治時代になり、欧米の技術を導入してからは、製品は工場で大量生産されるようになりました。

さらに、国内通貨の統一や金融機関の整備で、国営事業や政商(のちの財閥)の事業を育成していきます。

解説:政商とは…

政府と結託して新事業を展開し、独占的に利益を上げた特権的資本家たちのこと

三井・三菱・安田・住友など

1884年には、巨額の費用を投じて建設した官営工場を、政商たちが安い値段で購入します。

安い価格で購入した官営工場で製品をつくり利益を上げ、資本を蓄積するようになった政商たちは、昭和前期まで、日本の資本主義成長の中心になりました。

1880年代には鉄道や紡績産業を中心に、株式会社が相次いで設立されました。

とくに紡績産業は、日本の資本主義の成長におおきく貢献します。

蒸気機関によって24時間機械を動かす大規模な工場生産体制が確立し、つくりだされた安価な綿糸は、全世界に大量輸出されました。

機械製の製品生産体制をととのえ、輸出で利益を出しはじめた明治日本は、となりの朝鮮半島に進出して市場を広げ、より大きな利益を出そうとしていました。

しかし日本の経済的な進出は、朝鮮半島の宗主国だった清国との対立をまねいてしまいます。

そして、朝鮮半島の支配をめぐって1894年に日本と清国とのあいだで戦争が勃発しました。(日清戦争)

日清戦争後、勝利した日本側は、清国から得た巨額の賠償金をもとに、産業を育成します。

その影響で、日本経済界は好景気に沸き、新会社の設立がブームになります。

また、清国から得た賠償金は金本位制の導入のために、金(ゴールド)の購入に充てられました。

解説:金本位制とは…

市場に流通するモノ・サービスの価値を表現するための基準に、金をつかうしくみのこと

金本位制が導入されている国の紙幣は、中央銀行が保有している金と交換できる

金との交換券としての役割をもたせることで、紙幣の価値を担保していた

1904年に勃発した日露戦争では、世界トップクラスの強国ロシアとの戦いに必要な戦費を、アメリカのユダヤ人投資家ジェイコブ・シフから支援してもらいます。

シフから支援された借金額は、なんと戦争から82年後に完済できたというほど、膨大なものでした。

日露戦争勝利後の日本は、世界有数の強国ロシアに勝利したことで、国際的な信用力を増します

そして信用力を得た日本を見た欧米諸国は、江戸時代に結んだ不平等条約を改正します。

条約改正の結果、日本は貿易で自由に関税をかけられるなど、経済成長に有利な環境をつくりだせました。

そして経済成長に有利な環境のもと、日露戦争後の日本経済は、欧米先進国の水準にまで発展していきます。

つぎからは、日露戦争後に日本の資本主義社会がどのように発展したのかを解説していきますね。

日露戦争後は先進国水準の資本主義国になった

日露戦争後に日本製鉄業をリードした八幡製鉄所

日露戦争後の日本は、世界の資本主義一等国の仲間入りを果たします。

日露戦争後の日本社会は、資本主義の投資システムを利用して、以下のように発展しました。

  • 重工業(鉄鋼・造船・工作機械など)の国産化
  • 民間用製品の国産化
  • 借り入れられる外資の増加(世界の一等国になったことで信用力ができたため)
  • 新会社設立の活発化

以上の中で取り上げたように、日露戦争後の会社数の増加はめまぐるしいものでした。

1906年から1914年までのあいだに、新しく設立された社数は年平均で836社ずつと、約18倍も増加します。(出典:京都大学「日露戦争・第1次大戦間の日本経済

また、日本で暮らす人たちのはたらき方も変化しはじめました。

明治時代には労働者の半数が農民でしたが、大正時代(1912年~1926年)になると工場勤務者やサービス業従事者の割合が増えていきます。

また大正時代には、大都市を中心にサラリーマンというはたらき方が広まります

経済・産業が発展するにつれ、都市ではたらく農村出身の労働者が増加した一方で、彼らの低賃金・長時間労働などが社会問題化してしまった負の側面もありました

日本は1914年に勃発した第一次世界大戦で、戦場になったヨーロッパ各国へ物資を輸出したり、対戦国に代わってアジア市場へ進出したため、産業界が空前の好景気となります

第一次世界大戦が開戦した1914年には80億円だった国民総生産は、1921年には120億円と、わずか7年のうちに5割も増加しているのです。

1918年に第一次世界大戦が終結すると、戦場となって疲弊したヨーロッパ諸国の工業生産力が回復したため、日本の製品輸出量は急速に減り、経済不況におちいります。

この戦後恐慌によって失業率が一気に増加しました。

一方で、日本資本主義の発展に貢献してきた三井や三菱などの財閥は、多くの産業分野を独占し、より多くの富を蓄積していきました。

戦後恐慌以降に経済が長期停滞する中、1929年におきた世界恐慌が、日本の国家運営を追いつめていきます。

理由は、世界恐慌による不況から自国をまもるため、日本のおもな貿易相手国だった欧米諸国が保護貿易(ブロック経済)をおこなったからです。

世界のブロック経済化がすすんで以降、失業・貧困に苦しんできた国民や、戦争によって巨大な利益を出したい財閥の思惑が一致して、日本は資源を獲得するために中国大陸に進出しました。

大陸進出によって起きた中国との戦争(以下、日中戦争)中に、日本の経済産業・雇用システムは戦時体制に特化するために変革されます。

日本の資本主義システムは、戦時中に以下のように変化しました。

  • 金融→直接金融が規制され間接金融が導入された
  • 雇用制度→企業が「終身雇用」「年功序列」を導入して労働者をまもるようになった

それぞれについて、説明していきますね。

まずは、金融についてです。

日中戦争前には、事業に必要な融資の方法は、他の資本主義国とおなじく直接金融が主流でした。

解説:直接金融とは…

お金を必要とする相手に直接出資すること 

例:株式や債券を購入する

しかし戦争遂行のために、国家がすべての産業を統制する必要が出てからは、直接金融の自由な融資も制限されました。

融資の統制のために導入されたのが、間接金融という方法でした。

解説:間接金融とは…

お金を借りる人と貸す人のあいだに、第三者が存在する取引のこと

例:銀行による融資

融資に銀行という第三者をとおすことで、国家が企業への支配をしやすくしたのです。

つづいて、企業の雇用制度の変化について解説していきます。

日中戦争が起きるまでの日本は、工場などではたらく労働者の離職・転職がはげしい社会でした。

1937年に日中戦争がはじまると、労働者が徴兵されたことで、離職・転職がより加速化します。

人手不足が問題になった日本各地の工場では、熟練の職人や技術者の引き抜き合戦がはじまってしまいました。

そのため、離職してしまわないよう、一つの会社で長くはたらいてもらうために、年功序列の定期昇給や、新規就職・解雇の制限(終身雇用)をしたのです。

この変革によってできたシステムが、戦後に解体されないまま残り、日本企業特有の「ひとつの会社に定年まで勤め上げる」という文化ができあがったのです。

ここまで、日本の資本主義システムが日中戦争時におおきく変化したことを紹介しました。

中国との戦争が長期化するなか、アジアへの利益や安全保障で対立していたアメリカとも太平洋戦争で衝突します。

太平洋戦争の終戦以降は、戦勝国アメリカの影響下で、日本は世界トップクラスの資本主義国として成長します。

次から、その歴史を紹介していきますね。

太平洋戦争後はアメリカの影響下で世界トップクラスの経済大国になった

アメリカとの同盟関係によって世界トップクラスの経済大国になった日本の首都東京

ここからは太平洋戦争後に、日本が世界トップクラスの経済大国になった歴史を紹介してきます。

太平洋戦争の敗戦後、日本は戦勝国アメリカの占領下におかれました。

アメリカは1945年に日本を占領してから、戦前のアジア進出を推し進めた軍や財閥を解体します。

明治から戦前昭和まで、軍や財閥が影響力を持っていた日本の資本主義は、占領期の改革で民主的なものに変化しました。

そして太平洋戦争終結後におきた東西冷戦をきっかけに、戦後の荒廃ではげしく落ち込んでいた日本の経済は、ふたたび力を取り戻します。

解説:冷戦とは…

資本主義と共産主義という2つの経済システムを導入する陣営で対立したこと

第二次世界大戦の終戦後の世界では、アメリカをリーダーとした資本主義陣営(通称:西側)とソビエト連邦をリーダーとした社会主義陣営(通称:東側)が覇権争いをした

冷戦期の戦争である朝鮮戦争(1950~)で、アメリカが戦うための軍需物資生産を請け負ったため、日本の工業生産力は戦前の水準にまで回復しました。

朝鮮戦争の特需によって復興にむかった日本経済は、軍事的なアメリカの保護下で高度経済成長の時代をむかえます。

解説:高度経済成長とは…

経済成長率が高いこと

とくに、年平均で10%前後の経済成長のことをいう

日本経済は1955年から1973年までにかけて、年間平均9.4%と、非常に力強く成長しました。

おなじ時代の欧米各国の経済平均成長率が5%前後だったことから、日本が突出した経済成長を実現させていたことがわかります。

そして日本の経済規模は、1968年にアメリカに次いで世界第2位になりました

経済が発展したことで、日本の国民生活は一変します。

以前は、日本の労働者のおおくが地方で農業を生業にしていました。

しかし、戦後社会では地方の労働者がより良いはたらき口をもとめて大都市に向かい、サラリーマンとして企業につとめるはたらきかたが中心になりました。

高度成長期の日本のサラリーマンたちは、一つの企業につとめる中で毎年給料が上昇しつづけます。

戦後の日本国民のほとんどは金銭的にゆたかになったため、冷蔵庫・洗濯機・テレビや自家用車、一戸建て住宅などの高価な商品を買えるようになりました。

いったいなぜ、日本国民のおおくが物質的にゆたかになるほどの高度成長が実現できたのでしょうか?

まずは当時の国際為替相場が、1ドル=360円というドル高円安だったため、日本製品の海外輸出がしやすかったことが挙げられます。

また、戦後日本の経済成長は、太平洋戦争後にGHQ(占領軍)によっておこなわれた政策によって実現スピードが加速した面があります。

↓GHQが日本の発展のためにおこなった政策は以下の記事で紹介していますので、ぜひご一読ください

知っておきたいお金の歴史!戦後日本はどうして経済発展できたのか?

しかし、日本の高度経済成長の要因は、当時のGHQがおこなった政策だけではありませんでした。

高度経済成長の実現には、日本独自の理由も存在していたのです。

高度成長に貢献した日本独自の理由を以下に書き出してみます。

1.財政支出に占める軍事費が低かったから
2.はたらく現役世代の人口が増加したから
3.日本人の貯金率が高かったから
4.日本独自の企業システムがあったから

それぞれをカンタンに説明していきますね。

日本が高度経済成長した1つ目の理由は「財政支出に占める軍事費が低かったから」です。

GHQによる占領直後まで総理大臣だった吉田茂は当時、日本の防衛をアメリカにまかせて、自国の防衛費支出を低くする政策を採用しました。

目的は、国家支出のおおくを経済・技術の発展に投資するためです。

この「吉田ドクトリン」と呼ばれる政策は、現在まで継承され、戦後日本は競争力の強い新産業を育成し、外国への製品輸出で高度成長を実現したのです。

日本が高度経済成長した2つ目の理由は「はたらく現役世代の人口が増加したから」です。

太平洋戦争終結後の1947年~1949年の3年間は、戦いのない環境で安心した人々が子どもをつくったため、出生数が例年よりも格段に多くなりました。

この3年は、年間で平均約268万人が誕生します。

2019年の年間出生数が約86万人だったことと比べると、この世代は比較にならないほどの多人数であることがわかります。

1947~1949年に生まれた膨大な数の子どもたちは、団塊の世代と呼ばれました。

1960年代になると、中学・高校を卒業した団塊の世代の若者たちが、都市の企業・工場に就職したため、戦後の日本経済は人手不足に困らずに成長できたのです。

日本が高度経済成長した3つ目の理由は「日本人の貯金率が高かったから」です。

日本の政府・企業・個人の貯蓄率は、当時の欧米先進国の水準をおおきく上回っていました。(出典:旧経済企画庁「国内総貯蓄構成の国際比較

この、他国には見られないほどの貯蓄を、戦時中にできた間接金融(銀行を通しての融資)のしくみで効率よく活用して、経済成長に必要な事業投資につなげたのです。

日本が高度経済成長した4つ目の理由は「日本独自の企業システムがあったから」です。

欧米諸国とは異なる日本の企業経営システムが、戦後の高度経済成長に有利に作用したのです。

高度成長期の日本企業には「一度新卒で入った社員を定年(60歳)まで雇用する」という終身雇用と呼ばれるシステムがありました。

また、毎年勤続年数が長くなるにつれて給料が上昇する年功序列というシステムがありました。

終身雇用・年功序列には、社員の生活が安定する、会社への忠誠心が育つというメリットがありました

終身雇用・年功序列はともに戦時中につくられたシステムで、欧米各国には見られない雇用システムです。

日本式の雇用システムには、経済成長に好影響をあたえる以下のメリットがありました。

  • 優秀な人材を定年まで確保できた
  • 会社に忠誠をつくす労働者が長時間労働をしてくれた

戦後も解体されないまま残った戦時式の雇用システムにより、全日本の会社員が、自分の会社の成長のためにはたらいたことが、経済成長につながったのです。

ここまで、日本で高度経済成長がおこった理由を紹介していきました。

1973年におこったオイルショックによって、日本の高度成長は終わりました。

しかし日本経済は、その後も家電・自動車などの工業製品輸出で力強く成長しつづけました。

ドル高円安という当時の為替状況も相まって、日本の製品輸出は1980年代にはアメリカを巨額の財政赤字に追い込むほどになります。

アメリカは、ドル高および日本の強すぎる輸出競争力で出した巨額の財政赤字を解決するたために、日米英仏独の先進5カ国で会議をひらき、ドルを安くする方針を決めました。

国際市場が、製品輸出に不利なドル安円高となったため、日本は一時的に不景気になります。

日本銀行は、不景気を脱出する政策として金利を、それまでの5%から戦後最低の2.5%にまで切り下げました。

低金利により、銀行からお金を借りやすくなったため、企業や個人が土地・株式への投資をはじめ、生み出した利益でさらに投資を繰り返します。

この投資の繰り返しであらたな富が生まれつづけ、日本経済が空前の好景気(バブル)になったのです。

そして、ついに1980年代後半のバブル期には、日本は一人あたりの所得で世界一位になります

バブル期に、日本経済は資本主義世界の頂点に立ったのでした。

しかし、やがて異常な地価・株価の上昇をおさえるために、政府や日本銀行が金利を2.5%から6%に上げて、土地を買う目的での融資を規制します。

この規制の結果、土地や株は一気に売却され、1991年になるとバブルは崩壊します。

1990年代から現在まで、バブル崩壊の処理に失敗した日本経済は、失われた30年と呼ばれる長期停滞期に突入します。

失われた30年と呼ばれる1990年代~2010年代に、日本は時期によって新自由主義とよばれる経済理論を取り入れながら、景気の回復を目指しました。

↓こちらの記事で新自由主義が日本にあたえた影響を解説していますので、ぜひご一読ください

新自由主義が日本に与えた影響を解説

平成の時代をこえて、令和となった現在も、日本は世界有数の資本主義国であることは間違いありません。

しかし、製品輸出で強い競争力をつけた近隣のライバル国が登場した現在、日本がいままでの資本主義を採用したまま発展できるかは、未知数となっています。

まとめ

ここまで、日本の資本主義がどのような過程で発展していったのかを解説していきました。

日本は資本主義を取り入れてから、わずか150年ほどしか経っていないにも関わらず、いまでは世界トップクラスの市場規模をほこる経済大国になっています。

明治・大正・昭和と、かつての先人たちが、変化しつづける国際情勢に適応し、国民に合った資本主義社会を築いてきたため、今日の日本が物質的にゆたかな先進国でいられるのです。

しかし令和時代になった現在、日本は、いままでの資本主義のしくみで工業製品を海外へ輸出するだけでは発展しません。

今後の日本がどうすれば発展できるのかを考えるためには、私たち一人ひとりが思考停止せずに、経済の知識を身につける必要があります。