投資をするうえで、対象となる国の経済力は非常に重要な判断要素です。

国として国力=経済力が低い地域では、投資対象が企業であれ、土地であれ、国際であれ、どれも価値が下がっていくからです。

日本は戦前れっきとした発展途上国でした。

オランダのグローニンゲン大学の経済学部内にある「グローニンゲン成長開発センター」が手がけるマディソン・プロジェクトの調査によれば、終戦直後の日本の1人あたりGDPは約1,346ドルと、当時のアメリカの1人あたりGDP(1万1,709ドル)の8分の1以下でした。

しかしみなさんがご存知の通り、戦後日本は急速に経済発展を遂げ、今なお世界第3位の経済大国のポジションを維持しています。

ではなぜ戦後日本はこのような経済発展を実現できたのでしょうか。今回はその歴史を辿っていきます。

INDEX
  1. 経済の自由化
    1. 財閥解体による自由競争の促進
    2. 労組結成促進による労働条件の改善
    3. 農地解放による農業生産力アップ
  2. 社会インフラの整備
  3. 消費の増大
  4. まとめ

経済の自由化

戦後日本が経済を成長させられた要因の一つが、経済の自由化です。

これらは主にGHQが主導したもので、大きく「財閥解体」「労働組合結成促進」「農地解放」の3つが挙げられます。

財閥解体による自由競争の促進

自由に競争するビジネスパーソンたち

戦前の日本の市場は「財閥」と呼ばれる巨大な企業グループによる寡占状態になっていました。

三井財閥、三菱財閥、住友財閥、安田財閥です。したがって健全で自由な競争が生まれず、何か新しいことを始めようにも始められない状況でした。

財閥の支配から逃れてビジネスを始めるためには、中国や東南アジアに出て行くしか方法がなかったのです。

そこでGHQは財閥を解体し、50〜70代の財閥のトップを「戦争の責任の一部がある」として追放(「財界追放」。

残った40代以下の若い世代に次の時代の経済を任せます。

もちろんその後も旧財閥の企業はある程度の影響力を維持し続けましたが、もはやかつてのような影響力は失いました。

結果として新規参入や自由競争が起こりやすくなり、日本経済全体を前進させたのです。

労組結成促進による労働条件の改善

労働組合

しかし、いくら会社が成長しやすい環境を作ったとしても、お金を使い、経済を回していくのは一人一人の労働者です。

彼らがお金を持ち、使おうと思わなければ国の経済は伸びていきません。

そこでGHQは1946年3月に労働組合法を施行させ、労働組合の結成を促進しました。

戦前の日本では労働組合の結成が禁止されており、労働者の給料は得てして非常に低い水準にありました。

どれだけ頑張っても給料が上がらないわけですから、誰も求められる以上の仕事をしようとは思いません。

前述したように1945年時点の日本人の1人あたりGDPは当時のアメリカの8分の1以下でしたが、努力が報われない労働条件も要因の一つになっていたと言えるでしょう。

GHQは労働組合を作って給料の引き上げを要求したり、ストライキを起こしたりできるようになれば、日本人の労働者の意欲もアップし、「もっと頑張ろう」と思うようになるだろうと考えたのです。

農地解放による農業生産力アップ

笑顔の農家の人

個人が弱い立場にあったのは企業組織だけではなく、農業でも同じでした。

当時の日本の農業は、土地を持つ地主が小作人に土地を貸し、できた農作物の大半を地主が吸い上げるという形を取っていました。

これではいくら頑張っても生活は楽になりませんから、仕事への意欲もわきません。

そこでGHQは地主から土地を取り上げ、小作人たちに農地を分け与える「農地解放」を行いました。

農地解放はすぐに効果を表し、戦後の日本の農業生産量は一気に増加していきました。

社会インフラの整備

スクランブル交差点

経済の自由化が遅れていた戦前の日本ですが、社会インフラ=道路や港湾施設などの整備も遅れていました。

1919年に道路法が制定されていたものの、現在でいう本舗装(※)の道路が誕生したのは1926年でした。

しかも東京・品川〜横浜市の間の約17kmと、兵庫県尼崎市〜神戸市間の約22kmだけです。

1937年には日中戦争、1941年には太平洋戦争が行われたため、その後の道路整備は後回しにされていました。

実際、戦後1956年にアメリカのラルフ・J・ワトキンスらのワトキンス調査団が建設省に提出した「ワトキンス・レポート」では、日本の道路事情が酷評されていました。

同報告書には

  • 「信じがたいほどに悪い」
  • 「道路網をおざなりにしてきたことが日本経済の足を引っ張っている」
  • 「現在進行中の道路整備計画では全くもって不十分である」

といった旨の言葉がそこかしこに記されていたのです。

当時の日本の道路のほとんどは未舗装の土の道で、雨が降ればぬかるみ、あちこちに凸凹ができていました。

そのような道では本来数時間で物資を輸送できる距離でも、半日から数日かかってしまいます。

これでは経済を発展させようにも効率が悪すぎます。

そこで日本政府は公共事業に大規模な投資を行い、急ピッチで道路整備を進めていきました。

結果、1960年ごろには大半が未舗装だった日本の道路は、1966年には7,600km、1987年には1万4,000kmの全国高速道路網計画が策定・実行されていったのです。

補足

(※)道路の耐久性を向上させるために石やレンガ、コンクリート、アスファルトや砂利などを道路に敷き詰めることを指します。

消費の増大

右肩上がりのグラフ

経済の自由化と社会インフラの整備が行われたところに、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需を受けて、日本の経済成長がどんどん加速していった結果、日本の消費は一気に増大していきます。

人口増加も成長の後押しとなりました。

政府統計の「我が国の推計人口(大正9年~平成12年)」を見ると、日本の総人口は1945年に約7,000万人だったのに対し、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた1956年には約9,000万人に、石油ショックで経済成長がいったん落ち着いた1973年には約1億1,000万人にまで増加しています。

人口が増えれば単純にお金を稼ぐ人、使う人が増えます。

必然的に日本全体の生産が増え、消費も増え、経済が活性化していったというわけです。

まとめ

日本が急速な経済発展を実現できたのは様々な要因が重なったからですが、GHQによって半ば強制的に行われた経済の自由化や社会インフラの整備、それらに伴って起きた消費の増大が大きな要因でした。

これら3つの要素は、日本に限らず多くの国の経済発展に関わっています。

そのため、頭の片隅に置いておくだけでも、海外の経済ニュースを聞いたときに、

  • 「この国は経済の自由化が進んだから伸びたのか」
  • 「社会インフラの整備に本腰を入れたのなら、経済が成長するかもな」
  • 「順調に消費が伸びているから、うまくいけばこの国は成長しそうだな」

といった具合に、理解がより深まるはずです。